旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。平重衡の兵火(1180)、三好・松永の戦い(1567)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物。本尊は大観音(おおかんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏。建物は2005年12月、国宝に指定。 Read more.
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺の遺構とされる。天平勝宝4年(752)の東大寺山堺四至図には「羂索堂」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。 もとは寄棟造りの正堂と礼堂が軒を接して建つ配置であったが、鎌倉時代、礼堂を入母屋造りに改築して2棟をつないだ。 Read more.
鎌倉時代に東大寺を再建された俊乗坊重源上人の像(伝 快慶作・国宝・7月5日及び12月16日開扉)を祀る。重源上人によって建てられた淨土堂が兵火により焼失後、公慶上人が重源上人の菩提を弔うため同地に建立。堂内には快慶作の阿弥陀如来像(重要文化財)、平安末期の愛染明王像(重要文化財)も安置。 Read more.
天平勝宝6年(754)、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん)から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに三度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された。 Read more.
境内西北、正倉院の西側にあり、三間一戸八脚門の形式をもつ堂々とした門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火にも焼け残った寺内で数少ない建物のひとつで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構である。鎌倉時代の修理で改変されているが、基本的には奈良時代の建物である。 Read more.
奈良時代の創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調達できず、創建時に11間(けん、86m)あったが7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であるが、往時の壮大さがうかがえる。 毎年、元日の0時から8時と8月13日から15日の夜には正面唐破風(からはふ)下の観相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝することができる。 Read more.
東大寺総合文化センター内に2011(平成23)年10月10日開館。地下部分の遺構に配慮し、建物内部での「部屋免震工法」を日本で初めて採用した。約600㎡の館内に5つの展示室を持つ。所蔵する多くの仏像や絵画、古文書などを展示し、1250年以上に及ぶ東大寺の歴史を世界に発信することを目的にしている。 Read more.
江戸時代の大仏殿再建の際、復興の寺務所であった場所。八幡殿には仏師快慶が造立した僧形八幡神像(国宝・10月5日開扉)が、阿弥陀堂には重源上人が宋から将来した五劫思惟阿弥陀像(重要文化財・10月5日開扉)が、公慶堂には江戸時代に大仏殿を再建された公慶上人像(重要文化財・4月12日及び10月5日開扉)がそれぞれ安置されている。 Read more.
『燈花』とは、灯心の先にできる花の形のかたまり。これができると縁起が良いと言われています。『なら燈花会』を訪れた人々が幸せになりますように。そんな願いを込めてろうそく一つ一つに灯りをともします。 Read more.
2010(平成22)年9月30日竣工。旧・東大寺学園跡地に建ち、東大寺ミュージアム・収蔵庫・東大寺図書館・東大寺史研究所・華厳学研究所及び金鐘会館(大ホール・小ホール)からなる複合施設。東大寺の教学・歴史・文化の発信基地である。 Read more.
奈良時代に大仏を造立された聖武天皇の御后である光明皇后が、悲田院や施薬院を設置して弱者の救済を進められたことに基づき、1955(昭和30)年に開設された肢体不自由児施設「東大寺整肢園」を前身とする。現在は重症心身障害児者施設「東大寺光明園」や重症心身障害児者通園施設「華の明」などと共に、近隣地域の障害を持った子供たちの療育に務めている。また、一般整形外科の診察・治療も行っている。 Read more.
『燈花』とは、灯心の先にできる花の形のかたまり。これができると縁起が良いと言われています。『なら燈花会』を訪れた人々が幸せになりますように。そんな願いを込めてろうそく一つ一つに灯りをともします。 Read more.